年が明けたなーと思っていたら、気づけば3月上旬。
ちょっと時間、早送りされてません?
前回の記事、「何?すかしてるの?」と言われました。
おうおう、そう来たか。
では私らしく行こうじゃないか!
どうも!最近いろいろとボタンを掛け違える藤田です!

時間は、静かに形を失っていく。
流れているというよりも、気づかないうちに削られていく感覚に近い。
静かにそっと始まった一日、深夜の静けさに振り返れば、輪郭が曖昧なまま、ただ「終わった」という事実だけが残る。
濃かったのか、薄かったのか。
意味があったのか、なかったのか。
考えれば考えるほど、その答えが、すでに手の届かない未来になってることも多い。
先日の帰り道『君が代』を意識して聴いた。
ほんの数十秒で終わる、短い歌。
だが、その中に置かれている言葉は、人の一生では到底測れない時間を指している。
「あなたの命が、そして私たちが育むこの志が、千年も、八千代にわたるほど、果てしなく続いていきますように。」
気づけば終わっている旋律の中に、ほとんど永遠に近い時間が込められている。
そこにあるのは、長さではなく、密度。
どれだけ続くかではなく、その一瞬に、どれだけの意思を乗せているか。
自分の時間を振り返る。
やるべきことはこなしている。
責任も果たしている。
それでもなお、どこかで「ただ消費しただけの時間」が紛れ込んでいる感覚がある。
判断はしているが、思考しきってはいない。
関わっているが、向き合いきってはいない。
そうした時間は、確かに過ぎていくけど、何も残さない。
ここで、よぎった、大切な人との残り時間。
それが無限ではないとしたら、今この瞬間の扱い方は、まったく同じでいいのか。
次もある、ではなく、次がある保証はどこにもないとしたら。
時間は平等に与えられる。
だが、そこに込められる意思は、平等ではない。
同じ一日でも、何かを残して終える日と、何も残らずに過ぎる日は、確かに分かれる。
その差は、出来事の大小ではなく、どれだけ自分の意思を通したかにあると思う。
時間は止まらない。
そしてこれからもおそらく、気づけば一日が終わっているという感覚は続いていく。
それでも、ただ過ぎたとは言い切れない時間を、どれだけ積み重ねられるか。
また明日も、同じように時間は進む。
少しでも意思の残る一日にしよう。
では、また。
